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サミュエル・クレメンズ/マーク・トウェイン

1835-1910

生涯に渡り、サミュエル・ラングホーン・クレメンズ(マーク・トウェイン)は30以上もの小説、何百もの短編小説およびエッセーを発表し、世界中で講演活動を行った。1910年にその生涯を閉じる迄、クレメンズは、精神、人物、かつ様々な民族の方言を作品の中に描写したアメリカの代表的な作家として知られるようになった。彼の執筆はアメリカ社会の実況解説の声として用いられた。ユーモアと皮肉の仮面の影に薄く覆われ、19世紀後半のアメリカ社会で生きることはどういうことかということを彼の文学にユニークな投影をしながら、クレメンズの執筆はしばしば社会道徳、政治、人間性を批評した。

彼の文学が過去への洞察力を持つように、彼個人の生涯は歴史の証言者としての役割をさらに実証することになった。その生涯、クレメンズは内紛によって引き裂かれ苦悩する若い国家から国際的影響力をもつ国家へと発展していったアメリカ合衆国を目の当たりにした。彼は、西部への拡大から工業化、奴隷制度の終焉、技術の進歩、大きな政府、外国の戦争等、国の急速な成長と変化を経験した。そこに至るまで、彼はアメリカでおこっている変化について様々な意見を述べた。

サミュエル・クレメンズは1835年、ミズーリ州小村フロリダに7人兄弟の第6子として生まれた。4歳の時、クレメンズ一家はミズーリ州ミシシッピ河畔の小さな州境のハンニバルという町へ移り住んだ。ミズーリ州は、その時期、公に新しい州となり(1820年に米国合衆国の州として加わった)国の西境に位置していた。それはまた奴隷制を認めた州でもあった。サムの父親は一人の奴隷を、また彼の叔父は数人の奴隷を雇っていた。実際、サムは叔父の農場内にある、奴隷の居住地域で多くの少年時代の夏を過ごし、彼を生涯に渡り楽しませることになるであろう奴隷達の大げさな話や宗教的な歌を聞いた。

1847年、サムが11歳の頃、彼の父親は亡くなった。それからすぐに彼は地方の新聞社で植字工(印刷工)見習として働くため、5学年を終了すると同時に退学した。彼の仕事は、新聞記事の植字を手配することであり、それによって、サムは働きながら世界中のニュースを読むことができた。

18歳の時、サムはニューヨークとフィラデルフィアに向かった。そこで彼はいくつかの新聞社を転々とし、それによって新聞記事をうまく書けるようになったため、ある程度評価された。1857年頃、彼は故郷に戻り、ミシシッピ川の川船の水先案内人という新しい職業に就いた。

しかしながら、1861年の南北戦争勃発によりすべての川の航路が閉鎖され、サムは水先案内人の仕事を失った。その後、触発されたサムはマリオン・レンジャーと呼ばれる南部連合隊に志願入隊するが、わずか2週間後脱退してしまう。

新しい仕事を探し求め、ネバダ開拓地域の長官に任命された兄オリオンの招きにより、1861年7月サムは西へ向った。ネバダの銀炭鉱ブームの中で、銀を掘り当てることで一攫千金を夢みる野望にのせられ、サムはミズーリ州からネバダ開拓地域まで駅馬車で開かれた大陸を横断した。旅の途中サムは、様々な失望、事故、ユニークな人物に遭遇し、また初めてアメリカ先住民部族にも遭遇した。これらの出来事は彼に新聞の連載小説や書物、特に「Roughing It」を書くきっかけを与えた。

一攫千金を夢みた銀炭鉱者としての挫折後、サムはネバダ州バージニア市の新聞社で「Territorial Enterprise」に連載記事を書くようになりそこで初めてマーク・トウェイン(水深2尋という意味の水夫用語)というペンネームを使った。1864年までに変化を求めてサンフランシスコ市へ向かい、そこでサムは地元紙に書き続けることになった。

1865年、サムが有名になる最初の大きな出来事は、全国新聞で紹介されるようになった彼の短編小説「Jim Smiley and His Jumping Frog」『その名も高きジャンプがえる』がきっかけだった。1年後、サムは現在のハワイであるサンドイッチ島の現状を取材する目的でサクラメントユニオン新聞社に雇われた。彼の執筆はとても人気があり、本土に戻った後、彼は初めての講演ツアーに出発した。それは彼に成功したステージパフォーマーとしての地位を確立した。

アルタ・カリフォルニア新聞社に雇われ、東海岸の現状を取材し記事を書くため、1867年サムはニューヨーク市に到着した。彼はまもなくヨーロッパと聖地への蒸気船ツアーに申込み、出発した。彼の紀行文は、冗談めいた観察眼と生き生きとした描写に溢れており、それは読者の支持を受け、1869年「The Innocents Abroad」『地中海遊覧記』という彼の初めての出版本となった。その旅行でクレメンズは、将来の義理の弟になるチャールズ・ランドンと出会った。ランドンはクレメンズに彼の姉オリヴィアの写真を見せ、クレメンズは一目見て恋に落ちた。

2年間の交際の後、サム・クレメンズとオリヴィア(リヴィー)ランドンは1870年に結婚した。彼らはニューヨークのバッファローに落ち着き、そこでクレメンズはバッファローエキスプレスという日刊紙のパートナー、編集者、ライターとなった。バッファロー在住の間、彼の最初の子ども、ランドン・クレメンズが生まれた。

出版社の近くに住むため、クレメンズは1871年コネチカット州ハートフォード市に家族で引っ越した。最初の数年間クレメンズは多くの作家や出版者そしてその他偉人や著名人らの住宅地であるヌックファームの中心に家を借りた。1872年に開拓地の冒険からヒントを得たクレメンズの物語と回想録は「Roughing It」という本になり出版された。同年、クレメンズの最初の娘、スージーが誕生したが、息子のランドンはジフテリアにかかり2歳で亡くなった。

1873年、クレメンズの焦点は社会への論評に注がれた。彼とハートフォード・クーラントの出版者であるチャールズ・ダドリー・ウォーナーとの共著「The Gilded Age」の小説は、当時、時代を支配しているかのように見えた成金主義へのアメリカ人の執着や大規模なビジネス、政治腐敗を攻撃した。皮肉なことにその出版から1年後、クレメンズ家の趣向を凝らしたファーミントン通りにある4万ドルの19部屋からなる豪華な邸宅は完成した。

次の17年間(1874年から1891年)、クレメンズ、リヴィーと3人の娘達(クララは1874年、ジーンは1880年に生まれた)はハートフォードの家に住んだ。その間クレメンズは最も有名な作品をいくつか完成させた。それが「The Adventures of Tom Sawyer」 『トム・ソーヤの冒険』 (1876) とアメリカの情景の写実と彼自身のミズーリでの思い出を描いた「Life on the Mississippi」『ミシシッピの生活』(1883)である。The 「Prince and the Pauper」『王子と乞食』(1881)では階級関係を取り上げた。また同様に「A Connecticut Yankee in King Arthur's Court」『アーサー王宮廷のヤンキー』(1889)ではさらに一歩前進し、技術が急進展した時期を検証しながら公然と社会の弱者への抑圧を批判した。そして、おそらく彼の最も有名な作品である「Adventures of Huckleberry Finn」『ハックルベリィ・フィンの冒険』(1884)でクレメンズは、奴隷制が廃止された今も昔と変らない黒人に対する侮辱的な扱いと、内戦後の中央政府による復興政策の失敗を厳しく批判した。

「ハックルベリィ・フィンの冒険」は、クレメンズが所有する出版会社チャールズ・ウェブスター社により初めて出版された本でもあった。より多くの利益を得るため、また自分の本の編集、出版過程の影響力を持つために、クレメンズは1884年に出版社を設立した。1年後、彼はグラント将軍の思い出を出版するため、ユリシーズ・S・グラント (Ulysses S. Grant)と契約した;その上下2巻の本は多額の印税をグラント未亡人にもたらしたのと同様、出版者としての経済的な成功でもあった。

クレメンズはハートフォード市で過ごした何年か経済的な成功を享受したが、新しい技術発明に継続的に危険な投資を行いその多くが失敗に終わったため、最終的には自己破産へと追い込まれた。節約し借金を返済するために、1891年クレメンズとリヴィーは家族でヨーロッパへ移り住んだ。1894年、彼の出版社が倒産した際、クレメンズはお金を稼ぐために世界講演ツアーに出発することを余儀なくされた。そして1896年、悲劇が襲った。娘のスージー・クレメンズが24歳の時、ハートフォードの家に一時滞在している最中突然、髄膜炎にかかり亡くなる。彼女の死の床へ戻ることはできず、クレメンズ夫妻は二度とハートフォード市に住むことはなかった。

1891年から1900年まで、クレメンズ一家は講演活動を行うため、世界中を巡業した。その間、クレメンズはヨーロッパの大国と大企業の弱小国に対する増えつづける搾取行為を目撃した。その悲劇は「Following the Equator」 (1897)の中で描写されている。南アフリカでのボーア戦争と中国の義和団の乱は、帝国主義国家の振る舞いであるとして、クレメンズの怒りは激化した。1898年フィリピン領土を巡るアメリカ・スペイン戦争およびフィリピン戦争により、クレメンズの激怒はアメリカ政府へ向けられた。経済状況が回復したクレメンズは、1900年アメリカ合衆国に戻り、彼はオープンな形で自分が反帝国主義者であると宣言し、そして1901年から彼が亡くなるまでの間、反帝国主義同盟の副会長を務めた。

晩年クレメンズの執筆活動は暗転した。彼は人間の貪欲さ、残酷さ、疑問視される人類の人間性に焦点をあて始めた。1900年ウインストン・チャーチルを公の場で紹介する際、クレメンズが彼を侮辱するようなスピーチをしたため、彼のその態度は訴訟へと発展した。クレメンズの過去10年におよぶ講演ツアーは、一旦は彼を負債から脱出させることができたが、彼の反政府主義の執筆とスピーチは、再び彼の生計を脅かした。一部の人々に裏切り者とレッテルを貼られ、彼の良い評判が損なわれるという懸念と、いくつかの雑誌が掲載することを拒否したこともあり彼の幾つかの作品は、クレメンズが生きている間に出版されなかった。

1903年、3年間ニューヨーク市で生活した後、クレメンズの妻リヴィーが病気になり、療養のため夫妻でイタリアへ渡ったが、その1年後彼女は亡くなる。彼女の死後、クレメンズは1908年迄ニューヨーク市で暮らし、その後コネチカット州レディング市で最後の棲家となるストームフィールドと名づけた家に移り住んだ。1909年、彼の真中の娘クララが結婚した。同年、末娘ジーンはてんかん発作により亡くなった。4ヵ月後の1910年4月21日、74歳でサミュエル・クレメンズは亡くなった。

他の良きジャーナリスト同様、サミュエル・クレメンズ/マーク・トウェインは彼の周辺・環境を観察し、報道しながら彼の生涯を費やした。彼の執筆において、急速に変化する社会の強みと弱み、そして厳しい現実と理想等、様々な種類のイメージを描いた。彼の生涯と作品を観察することにより、過去の時代の様々な出来事とその出来事の影響に対する社会の変化が見えてくる。私達は19世紀のアメリカ人の考え方を掘り下げて研究し、そして私達自身の歴史の観察をし、新たな関係を発見し、新たな推論を創造し、そしてその時代に生きた人々と、その時代についてより良い洞察を得ることができる。

クレメンズはかつてこう書いている。「どうなのだろうと予想することは素晴らしいが、実際に自分でその答えを見つけ出すことのほうが素晴らしい。」


 
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